骸骨を抱いて瞑想にふけるマグダラのマリアは私には瞑想ではなく当惑の姿として写る。なぜなら今の私がそうだからだ。なぜイエスの名の裏から意地汚い魂を持つサイコパスの大国主=インドのシヴァ=偽りのイエスキリストが過去という曖昧な事を利用してありもしない創作のあらゆる家族関係を無理矢理に見せつけ、いい募り、迫られる。それは父と娘、夫と妻、母と子、兄と妹等々。私の世界に表裏一体論=善悪二元論が無い。それ故に私の世界にこの大国主=サイコパスの姿は皆無なのだ。こんな者に関わられるのは言語道断で正神=全知全能の神への忌まわしい冒涜に他ならない! この当惑とサイコパスの存在しない私の世界に帰りたい思いがマグダラのマリアの表情に表れていると思われてならない。骸骨を抱いているのは瀬織津姫の黄泉の国を表しているということだろう。
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